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旭川市

北海道2番目の都市『旭川』。寒暖差の激しい肥沃な大地には軍都として栄えた歴史があった。

石狩川

日本でも有数の”寒暖差”が大きな街旭川のはじまり

旭川駅のすぐ裏を流れる忠別川
旭川駅のすぐ裏を流れる忠別川
美瑛川
美瑛川

旭川は北海道の中心部、”上川盆地”に位置しており、山に囲まれていることから寒暖の差が激しく、四季の変化に富んだ気候として知られています。
明治35年(1902年)には日本の最低気温である-41℃を観測し、100年以上経った今でもその記録は更新されていません。
また、旭川は石狩川や忠別川、美瑛川、牛朱別(うしゅべつ)川など、川が多い地域であることから、上流より栄養豊富な土が運ばれ肥沃な大地が形成されており、開拓当時に穀物や野菜などの生育が良いとの報告に強い印象を受けた司法大輔(現在の司法省)の岩村通俊は明治18年(1885年)に屯田兵本部長の永山武四郎と近文山の山頂から上川盆地を視察しました。
その後、岩村の指示により、翌年には道路の開削や農業試験場の開設を指示し、旭川の歴史が動き出しました。

軍都として栄えた歴史

かつて第七師団が置かれた現陸上自衛隊旭川駐屯地
かつて第七師団が置かれた現陸上自衛隊旭川駐屯地

北海道の開拓当時、ロシアによる脅威から守るため、明治29年(1896年)に第7師団が札幌で誕生しました。
その5年後の明治34年(1901年)、北方の要として軍の拡大が必要とされた事や、旭川が交通の要所だった事から鷹栖村近文(たかすむらちかぶみ)に移駐。
第七師団への物資の供給などの為に滝川から旭川まで鉄道を開通させたことにより、街には旅館や呉服店などが次第に増えていき、3,600人ほどだった人口は約17,000人にまで急増しました。
その後、人口は増え続け昭和60年には36万5千人を超え、北海道では2番目に人口の多い街へと発展していきました。

全国に名を馳せる旭川ラーメン。地元に根付いたラーメン文化

全国各地にご当地ラーメンが存在しますが、ここ旭川にも『旭川ラーメン』として全国に名を馳せているラーメンが存在します。
その発祥は諸説あり、定かではありませんが、第二次世界大戦後に養豚が盛んだった事や、北海道の中心部に位置しており、物流の拠点だったことにより煮干しなどが容易に手に入った事で”豚骨スープ”と”魚介だし”のダブルスープが誕生したと言われています。
また、醸造業が盛んだった事から醤油味が基本となりました。
さらに、冬の寒さが厳しい気候である事から、ラードを浮かせ蓋をする事でスープが冷めにくくしたと言われています。
これにより、香り高いラードの香りと豚骨スープ、魚介だしによるダブルスープの醤油ラーメンが旭川ラーメンの基本となり、終戦から80年ほど経った今でもたくさんの人に食されています。

住民第1号『鈴木亀蔵』

鈴木亀蔵居住の地に建てられた石碑
鈴木亀蔵居住の地に建てられた石碑

上川地方の住民第1号とされている鈴木亀蔵(すずきかめぞう)は1870年頃、秋田から海を渡り北海道千歳郡漁村(現在の恵庭市漁町付近)で漁場監察を務めていました。
当時は商人の自由な往来は禁止されていた上川に入り、米や味噌、酒などと熊の皮などをアイヌと交易していました。
1877年にアイヌの女性イヤンパヌを妻とし、石狩川と忠別川の合流地点付近に住居を構え、これが上川地方では初の和人の定住と言われています。
亀蔵(かめぞう)という名はアイヌからは呼びづらく、『かめきち』と呼ばれ周囲から親しまれていたそうです。
現在、亀吉が住居を構えた地域が亀吉(かめきち)として住所になっており、実際に住居があった場所は亀吉公園となり、園内には鈴木亀蔵居住の地として石碑が建っています。

鈴木亀蔵と現在の日本醤油工業株式会社

移転後よりそのまま使われている社屋(日本醤油工業株式会社)
移転後よりそのまま使われている社屋(日本醤油工業株式会社)

鈴木亀蔵は明治23年(1890年)、新潟出身の笠原喜助、喜八郎兄弟とともに永山村(現:旭川市永山)にて笠原酒造店を興し、翌年明治24年(1891年)に旭川市曙1条1丁目2-3に移転しました。
それから11年後の明治35年(1902年)、亀蔵は病気により51歳でこの世を去ります。
その後の昭和3年(1928年)笠原酒造店は北海道内の酒造業の合併により、日本清酒(株)旭川支店へと変わりますが第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)、政府の指導により酒造業の企業整備があり、日本清酒旭川工場が転廃に指定されたことで醤油醸造へと転換が図られました。
紆余曲折はあったものの、住民第1号『鈴木亀蔵』が仲間と共に興した会社は現在でも日本醤油工業株式会社として営業を続けており、現住所に移転した時の建物も形を残し、旭川市民に親しまれています。

旭川市の見どころ

旭橋

旭橋
旭橋
旭橋(歩道より)
旭橋(歩道より)

石狩川に架かる橋で明治25年(1892年)に現在の位置に架けられたのがはじまり。
のちの昭和7年(1932年)に今の鉄鋼製のアーチ曲線を描く橋がかけられました。
竣工当時、最新の技術を持って建設され現在でも旭川のシンボルとしてその姿を残しています。
また、旭橋は第七師団と旭川の中心部を結ぶ場所に位置しており、当時は戦車の車列が通っても大丈夫なように頑丈に作られたと言われています。
90年程経った今でも橋脚さえ保護すれば耐久性はまだまだ問題ないそう。
寒暖差が激しい旭川の気候でもこれだけ長く利用されているというのは当時の技術の高さが伺えることかと思います。
夜になるとガス灯が灯り、モダンな雰囲気と力強い鉄鋼部分が相まって独特な様相を望むことができます。

平和通買物公園

かつては師団通と呼ばれた平和通買物公園
かつては師団通と呼ばれた平和通買物公園

旭川駅前より約1キロに渡る歩行者天国で街の中心部に位置しています。
歴史を辿ると、もともとは旭川駅と第七師団とを結ぶ道として『師団通』と呼ばれていました。
1900年以降に旭川の人口が急激に増え始めると、人馬の往来が多くなったことにより通りには商店などが立ち並び、旭川随一のメインストリートへと発展を遂げます。
その後、明治39年(1906年)には上川馬車鉄道が開通し大正8年(1919年)まで運行されました。
第二次世界大戦後の終戦(1945年)に伴い、第七師団は解体され『師団通』という名は平和への新たな願いを込めて『平和通』と改められました。
1960年以降になると自動車が普及し始め、交通事故が全国的に社会問題となったことで、安全に買い物ができるようにと1972年に歩行者天国へと変貌を遂げ、現在でもたくさんの市民、観光客が行き交っています。

旭川市旭山動物園

旭山動物園(正門)
旭山動物園(正門)

日本最北の動物園として昭和42年(1967年)に開園。
当時北海道では札幌円山動物園、おびひろ動物園についで3番目の動物園として開園しました。
来園者数の減少により一時は閉園の危機に陥ったものの、1997年から動物の自然な生態が見られる行動展示を実施し、来園者数が増加。
2004年7月、8月には月間の来園者数が上野動物園を抜いて日本一を記録。
以後、北海道でも有数の観光地となり、老若男女問わず賑わいを見せています。

サンロク街

サンロク街中心部
サンロク街中心部

旭川市3条6目を中心として1,000店以上の飲食店がひしめき合い、旭川の歓楽街として地元民のみならず、観光客にも親しまれています。
毎年8月上旬には旭川夏祭りと連携して『大雪さんろくまつり』が開催され、歩行者天国となった路上にはたくさんの露天が建ち並びます。
旭川の中心部にお泊まりならサンロク街にお出かけしてみてはいかがでしょうか?

あさひかわラーメン村

あさひかわラーメン村
あさひかわラーメン村

旭川ラーメン8店舗が軒を連ねるあさひかわラーメン村。
一つの建物にお店が集まっており、ラーメンの食べ歩きや食べ比べもできます。
お店によっては半分の量の”ハーフ”がありますので、食べ歩きするにはちょうど良いです。
旭川ラーメンを堪能したい!と言う方にはオススメのスポット!
※ハーフでも2店舗から3店舗が限界かと思われます。
※ハーフの無い店舗もあります

焼肉店が多い!?

旭川発祥といわれるトントロ
旭川発祥といわれるトントロ

旭川では昔から養豚が盛んだった事から、焼肉店が多いと言われています。
そのため、メニューは豚肉が中心となっている事も多く、老舗の焼肉店に行くとほとんどが豚肉中心。
トントロは旭川の焼肉店が発祥と言われているほか、豚サガリ(※ハラミのことを北海道ではサガリと呼びます)も旭川と同じ上川地方が発祥と言われています。
なかには付けダレが無く、塩のみで食べる焼肉店もあるほど豚肉の質がよく、地元民にも親しまれています。

アクセスaccess

札幌より車で移動
道央自動車道札幌インター〜旭川鷹栖インターまでの有料道路利用で約1時間45分〜2時間

札幌より電車での移動
札幌駅〜旭川駅 約1時間35分

航空便
旭川空港
羽田空港〜旭川空港(JAL,ANA,AIRDO 約125分)
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旭川市の特産品items

  • 旭川ラーメン店”緑橋カウンター”【旭川王道醤油ラーメン】

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